戦後直後の日本!まさしく貧乏のどん底であり、誰もが苦しかった!

昭和20年8月15日、日本は戦争に負けて、どこもかしこも焼け野原になってしまいました。戦争で犠牲になって亡くなった人も大勢出て、この時日本人はもう二度と戦争はすべきじゃないと強く思いました。

戦争で何の罪もない人間が亡くなっていくのは何ともいたたまれません。例え話す言葉や肌や目の色が違っても、世界中同じ人間には変わりありません。どうして国と国が敵になって、醜い争いを起こし、何の関係もない人類を爆弾落として殺していくなんて…だから日本は第二次世界大戦・太平洋戦争の教訓を境に「憲法第九条」を導入させました。

これからはどんな状況になっても、日本人は戦争には参加しない、武器を手に取ることは絶対にしないなど、固い誓いをたてました。

特に原爆投下された広島、長崎は酷く焼け焦げ、原爆から出た大量の放射能を浴びた人々は、その後遺症で苦しめられる人生を送る羽目となりました。現在の90歳以上の高齢者の中には、もう70年以上もその後遺症で苦しんで生きてきたのです。

戦後当時はまだ子供だったり、若者だったわけですから、全て戦争で人生を狂わされたわけです。

戦後当時の日本の生活はまさしく貧乏のどん底で、住む家も食べ物も十分にありませんでした。ですから「闇市」があちらこちらで見られたのです。

やはり人間は食べることをしないと、たちまち栄養失調になって死んでしまいます。ですが闇市で売っている食べ物も意外と高く、なかなか手に入らなくて空腹を我慢していた子供達は多かったのです。

戦後直後の日本には、占領軍のアメリカ兵がいて、ジープに乗っては子供達にチョコレートを配る光景もありました。ですが当時の大人たちからしてみれば、戦争でさんざん爆弾落として日本人を沢山殺したのだから、アメリカは今だに敵視する人達も大勢いました。

例え貧乏であっても、家族には何か食べるものを与えないと全員飢え死にしてしまうという理由から、遠くの田舎に出向いて、野菜やいも、米などの買い出しに出る大人たちが大勢いました。

でもやはり食べるには家族全員足りません。ですから米などはご飯として炊くのではなく、雑炊にして食べることが多かったです。雑炊といっても、昔は水も綺麗だったわけでもなく、食器にしても衛生状態が悪かったので、それで体を悪くする子供達や大人が大勢出ました。

何処を出歩くにしても、全てが焼け野原で、家も灰になってしまったので、何処の家庭でも寝るのは野宿同然でもありました。やはりこの頃の日本人は「とにかく生きて行かねば!」の精神で必死だったことが分かります。

せめて焼け残った屋根の下で寝れば、雨風しのげるということで、その日暮らしをしていたのです。

闇市でも毎日のように長蛇の列で、市民1人1人がまずは食べるものを食べて生きながらえていくしか、今は方法がない!ことが浮き彫りになっています。

現に私の母も戦争で運よく犠牲を逃れた1人で、当時の酷い貧乏の暮らしぶりはハッキリと覚えています。そしてもう二度と戦争で何もかも失って、貧乏のどん底暮らしはしたくないと話しています。

母の子供時代こそが戦争が原因で、貧困生活を強いられていたのですから。