Monthly archives: 5月 2018

時代はどんどん進化してきた日本!何処かで何か不安が生じている?

戦後70年以上経過し、日本の時代は私の子供時代と比べたら遥かに物凄い進化を遂げました。私の子供時代の時でも、戦争で何もかも失くした日本が立派に復興し、東京オリンピックや大阪万博などの世界的規模行事が行えるくらいまで、進化したのです。

でも日本はもっとそれ以上にどんどん進化しています。何といってもパソコン、携帯、スマートフォンの登場で、現代では誰でもこれらは日常ではなくてはならない存在になりました。

パソコンはタイプライターやワープロが元祖、携帯、スマートフォンはポケットベルが元祖で進化したものと言えます。

まだパソコン、スマートフォンがない時代は、私達は普通に日常生活が送れていました。勉強で分からない言葉を辞書で調べたり、天気予報はいつもテレビや新聞でチェックしていました。

それが今ではどうでしょう。パソコン、スマートフォンで自分でいつでも分からない言葉や天気予報を調べることが可能となり、辞書とかテレビも昔ほど必要とされてなくなってきました。

特にスマートフォンは持ち歩くだけで、自然災害のことも分かりますし、ネットと繋がってますので、いつでも何処でも無料アプリケーション「ライン」やメールなどで相手と通信のやりとりは出来ます。

昔は手書きで手紙を書いて「文通」が流行しました。県外の誰とも分からない人間と手紙のやり取りをしていたのです。その文通が現代のスマートフォンのラインに進化したと言えます。

ラインが出来れば、いちいち切手を貼ってポストに投函することもありませんし、手書きで便せんに書き綴る必要もありません。実に便利になりました。

通信販売業界にしてもそうです。実に変化しました。昔は新聞チラシに入っていたものを電話で注文するのが当たり前で、商品が手元に届くまで2~3週間はかかっていました。それが今じゃパソコン、スマートフォンのネット通販を利用すれば、もう翌日には注文した商品が届く何ともスピーディーな時代になったのです。

現代の子供達もテレビゲームから、ネットゲームを選んで楽しむ有様です。本当にパソコンやスマートフォンの威力には驚かされるばかりです。

ですがこの便利になった通信時代ですが、便利な裏にはやはり何処かで不安が生じています。

特に携帯が更に進化したスマートフォンですが、便利になりすぎた反面、ラインなどのやり取りで友人を増やして、相手と実際に出会うことも可能となりました。ラインだけでは相手のことが分かりませんから、いくらでも内容は自由に書きこめます。

ですが最近ではラインや出会い系サイトなどで犯罪に巻き込まれるケースが多くなり、なるべく知らない相手とは会わない方がいいのではないかとさえ、噂されています。

パソコンにしてもそうです。子供が自由に閲覧出来るようになって、何らかのトラブルにあうケースも多くなっています。ですから子供がパソコンを使うときには、画面を親がブロックするなどの処置もしなくてはなりません。

そして年年多くなって来た「特殊詐欺」が後を絶ちません。アダルトサイトを開いたばかりにユーザーは、錯乱状態に陥って、連絡先に電話を入れたばかりに多額のお金をだまし取られたり、高齢者は相変わらず「振り込め詐欺」の被害にあっています。

大手企業のパソコンではメールに添付されたアプリを開いたばかりに、ウイルスに感染し、大量の個人情報を流出することも多くなりました。

時代が便利になれば、同時に色んな危険が潜んでいることを我々は覚えなくてはなりません。「自分だけは絶対大丈夫!」この考えが一番危険です。危険から守るのは結局自分自身しか出来ないのです。

不況が長引いた日本情勢!消費税増税など我々市民を苦しめ始めた!

あんなに好景気だったのが、一転して日本の景気は冷え切ってしまい、失業者が大量に溢れる中、消費税増税などがありました。そもそもこの消費税っていつからスタートしたのでしょうか?

過去をさかのぼってみると、昭和63年(1988年)に、竹下元総理大臣が消費税制度を設立させ、翌年平成元年(1989年)に消費税3%がスタートしました。消費税?って何気なく聞くこの言葉ですが、皆さんはこの消費税が何の目的で使われているか、ご存知ですか?

消費税は「社会保障」に使われています。この社会保障、どういった内容が含まれているのか、調べてみました。一番に挙げられるのが65歳以上の高齢者に支払われる「老齢年金」です。

そして「医療」「介護」「子育て支援」なんかでもこの消費税は重要な役割をしています。当初3%で始まった消費税は、平成9年(1997年)橋本元総理大臣時代に5%引き上げられました。

まだまだ世の中は不況が続いており、定職になかなか就けない人達が多いのに、この消費税5%の引き上げは痛いものでした。小さい子供がスーパーでお菓子を買いに行っても、消費税を払っているんです。年齢に関係なく支払っているこの消費税って本当に市民にとって役立っていると言えるのでしょうか?

そして安倍総理就任後、消費税は平成26年(2014年)4月に8%に引き上げられました。どんどん上がっていく消費税…やはり「社会保障」が危うくなっているのではないかとさえ思います。

どんどん加速化する少子高齢化問題。高齢者人口が増えていき、若い働き手が減少傾向になり、将来の老後の年金にいささか不安を感じるようになってきました。

実際企業によっては、65歳定年制を70歳に引き上げている所が多くなりました。パートでも70歳定年が増えています。あと再雇用制度も設けて、65歳以上の一度定年を迎えた人がまた社会で再度働けるようになりました。

医療や介護にしても、殆ど高齢者のために税金は使われています。病気が長引けば、その分医療費や介護費も随分かかります。ですから消費税だけでなく、他の税金全体を見ても、少子高齢化の影響で深刻な状態になってきています。

実際日本の税金は借金をしているのです。これは安倍総理も記者会見などでハッキリコメントしていましたからね。その借金の埋め合わせって何処からやってるのでしょう?これはさすがに私では分かりません。

だからまず身近な消費税を引き上げて行かないと、「社会保障」が上手く保つことすらできなくなってしまうのです。

そして消費税8%から10%への引き上げが決まりました。安倍総理は「色んな金融関係の危機、そして東日本大震災のような大きな自然災害が起きない限り、平成29年(2017年)4月に消費税を予定通り8%から10%に引き上げます。」と述べていましたが、熊本地震が起きたことで、引き上げを延期せざるを得なくなりました。

安倍総理は「景気は回復傾向にある。」と言ってますが、果たしてそうだと言えるでしょうか?求人は確かに多くはなりましたが、その割には人手不足の所が多いです。

それに税金は上がる、物価は高くなるばかりで、我々日本人の生活は不安と心配、苦しみが徐々に出始めているのが現状です。

今はもうない終身雇用!それが非正規をそもそも増やしたのでは?

バブル崩壊後、終身雇用はいつの間にか廃止され、世の中は景気が悪くなりました。突然の大量のリストラを出さざるを得なくなった企業は数え切れないほどでした。

正社員でも、パートやアルバイトまで容赦なくリストラが降りかかってきました。職を失い、途方に暮れた人々も沢山出ました。冷ややかな景気に、新しい職を探すのは何とも至難の業であり、正社員の求人は極端に少なくなってしまいました。

連日ハローワークでは、求人窓口に訪れる人が多く、満員になっていました。対応に追われるハローワークの職員も、本当に忙しく大変な思いをしました。

ですが職探しをする側とすれば、1日も早く就職口を見つけたい!と焦りが生じ始め、その割には面接してもなかなか採用に至らないケースが多々見られました。それだけではありません。

多くの企業が、面接の前に書類選考の制度を設けて、応募者の中で通過した人にだけ面接をするといったケースが増え、今ではそれが当たり前となりました。昔はそんな書類選考など一切なく、直接面接をして採否を決めていたものでした。

とにかく景気が悪かったため、求人数が少ない割には、応募者が殺到してどうしても全員面接をする余裕がなかったので、書類選考に企業側は踏み切ったわけです。

でも履歴書書いて写真を貼り、その上職務経歴書もパソコンで作成するのです。これは結構時間がかかりますし、書類を郵送するにも代金はかかります。書類選考で通らず、面接もしないで書類が返ってくると何とも悔しい、そして虚しい思いで一杯になりました。

「企業は50社以上応募するくらいの覚悟で!」と一時期言われましたが、これも人によりけりで、張り切って応募しまくる人もいれば、不採用続きで疲れ果ててしまう人もいました。

ですから正社員としての就職口が見つかるまで、1つでも多く収入に繋がるようにと、パート、アルバイト、派遣社員などの非正規で働く人が多くなりました。

ですが折角非正規で働けたにしても、終身雇用の様に長期に渡って働ける保証はありません。企業とは必ず「雇用契約書」を結び、雇用期間まで決められる有様でした。契約期間が切れる時期が近くなると改めて契約更新をかわすのですが、でも運悪く契約期間満了だとか、雇い止めなど仕事が少なくなるとそういった例も多かったです。

そうなるとまた次の所を探さなくてはならない…本当に非正規は同じ所で働けるケースは少ないです。

仕事の種類も様々ではありますが、不況だった頃はとにかく職を失わないように、例え非正規であっても長く働きたい!それが多くの労働者の本音です。

ですが職の中には離職率の高いものがあります。コールセンター、宅配会社、飲食業、ホテル、旅館などが挙げられます。どれも接客業です。それと介護職もです。

コールセンターは「声の接客業」とは昔からよくいいましたが、座ったままの仕事で体は楽です。それに比較的時給は1,000円以上で高めなんですが、離職率は非常に高いです。営業系のテレフォンアポインター、カスタマーサポートなどの受付など、相手の顔が見えませんので、クレームや罵声などを浴びせられるとたちまち電話恐怖症になり、研修期間で辞めてしまうパターンが多いです。

宅配会社は、配達しても家が不在なことが多く、再配達をすればそれだけ勤務時間が長くなり、毎日残業三昧です。それでは体力が持ちませんから、これまた離職率高いです。

介護職は高齢利用者の世話を終日しますので、手足、腰に負担がかかって体を壊すので、長く働ける人は少ないです。

現代は少しでもいい給料の所へ転職するのが当たり前です。

思えば?バブル絶頂期から崩壊を境に日本の雇用や生活に変化が起きた

皆さんは「バブル」って正式な意味をご存知でしょうか?この「バブル」とは日本語で、「水の泡」を意味します。そういえば昭和時代の終期から平成になってからの暫くは「バブル絶頂期」だったのです。

日本中物凄く景気が良く、主に株式や不動産などの経済が大拡張を起こし、まさしく高度成長期時代以来の良い時代でもありました。

「バブル絶頂期」の正式な時期は昭和61年12月から平成3年2月まで続きました。この最中に昭和天皇が重い病に倒れて、吐血し暫く療養されてたことを配慮し、自粛ムードもありました。

そして昭和64年1月7日、昭和天皇崩御により、昭和時代は幕を下ろし、平成へと変わりました。そして自粛ムードは一気になくなり、好景気は続きました。

あの頃の日本はどうして好景気だったのでしょうか?当時日本は円安であり、輸出業に関しては絶好調でした。一方アメリカでは自家産業が深刻な赤字となり、輸出業に関しては不調でした。

海外から日本製品は質がいいと高く評価され、車や電化製品などが売れに売れました。それに雇用情勢も良く、仕事も探しやすい時代でもありました。ですから仕事がふんだんにあったお蔭で安定して長く働くことも可能でした。

私の父は自営で建築業を経営していました。ですからバブル絶頂期には不動産を手に入れたい人が多く出て、分譲一軒家は調子よくあれよあれよと売れていきました。ですから父自身も新しい家の建てがいがありました。新しいお客さんがすぐに家を買いたいと飛んできましたので。

注文住宅も調子よく売れました。ですがこのバブル絶頂期も平成に入ってから、長くは続きませんでした。何故バブル崩壊を引き起こしたのでしょうか?それは日本銀行が不動産の土地融資に関する金融関連の引き締めを行い、その上「総量規制」がかかってしまいました。

この「総量規制」とは、大蔵省が平成3年3月に前金融業者に通達した行政指導です。これを境に不動産に関する融資は大幅に抑えられ、日本全体が好景気から一気に不況になりました。

これがバブル崩壊の原因だったのです。

大手証券会社も株の大暴落となり、景気はますます冷え切っていきました。ですからバブル崩壊後は沢山の企業が倒産に追い込まれたり、人員削減のため大勢のリストラを出すなど、雇用情勢までもが悪化していきました。

雇用情勢悪化のため、ハローワークや駅に置いてあるフリーペーパーなどの求人もぐ~んと減り、リストラされた人々は職探しに必死でした。ですが求人数が少ない割に求職者の数の方が大幅に多かったため、なかなか新しい職につける人は少なかったです。

勿論私の父の仕事も大きな打撃を受けました。不動産金融に総量規制がかかったために、分譲住宅が売れなくなってしまったのです。自営業は本当に不況になるともろに不利になるどころか、収入も極端に下がってしまいます。

私の父だけじゃなく、やはり職が見つからない人達は収入を少しでも繋ぐために、アルバイトで働く人が増えてきました。ですが肝心のアルバイトさえも見つからない有様で、日本人はまさに不況の嵐に暫くさらされる羽目になりました。

やはりバブル崩壊を境に世の中に変化が起こりつつありました!

日本の子供達は生活に不自由を感じなかった!それが私達の世代なのだ

昭和28年、NHKが本格的なテレビ放送をスタートさせた時は、画面が白黒でした。まだテレビが出た当初は、とても高価なもので一般市民の手の届く代物ではありませんでした。

ですが昭和30年代に入り、現在の天皇陛下がまだ皇太子時代だった時に、皇后陛下の美智子様とのご成婚の様子がテレビ中継されたり、また昭和39年、東京オリンピックの開会式がカラーで放送されるようになると、たちまちテレビは一般家庭に普及され始めました。

まさしく日本の生活様式は、アメリカ式に近づいていき、高度成長期時代を迎えることが出来たわけです。そういった時代の中、私は生まれて両親に育てられました。

私が幼稚園時代は、まだテレビは白黒とカラーの両方の放送で、本格的に全てがカラー放送になったのは、小学生になってからだと記憶しております。

アニメに関しては、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などが白黒で放送されていましたが、私はまだその時は生まれていませんでした。物心ついた時から、私の場合アニメはカラーで見ています。

小学生の頃は、私は何不自由ない生活を送っていました。近所にも沢山幼馴染がいましたので、学校から帰ればいつも暗くなる寸前まで皆と外で遊んでいました。遊んでいたと言っても、殆どが家の前でしたので、当時の母からしてみれば安心して私達を遊ばせることが出来たのです。

母にしても、近所の奥さんたちと毎日の様に井戸端会議していましたね。あの頃の母の顔なじみだった人たちの殆どが専業主婦でした。ですから子供だった私や幼馴染を遊ばせる傍ら、母たちは母たちで世間話に花を咲かせてたのです。

現代の様に、通り魔殺人だの、子供の連れ去りだの、見知らぬ人間にいきなり殴られることなどありませんでしたので、実にのんびりムードが漂っていた時代でもありました。

やはり高度成長期時代に生まれた子供達は、生活には何も不自由だと感じることはなかったと言えます。それが私達の世代なんです。

昔はパソコン、スマートフォン、ゲームなど家で遊ぶ娯楽品などありませんでした。竹馬、缶けり、ゴムとびなど、身近にあるもので遊具を作っていました。だから外遊びが多かったんです。

子供時代、一番よく遊んだのは堤防で、使い古しの段ボールで草ぼうぼうの中の坂を皆で滑り降りていくことでした。全然お金をかけずに段ボール1つで、遊んでいました。ですが、堤防の草むらで遊んでいましたから、服が草だらけになって、結構汚しました。

皆母親には、服を汚したことで叱られはしましたが、当時はあの遊びが楽しかったのです。只遊びに夢中になったばかりに、堤防の川にどぼ~んと落ちた子が実際にいまして、あれは驚きました。

私の子供時代は、ちゃんと学校に通えて、大勢でお金をかけずに生活品の身近なもので手作りの遊具を作ったり、おこずかいをもらって駄菓子屋でおやつを買ったりと実に毎日楽しい日々を過ごしていました。

両親には毎日1日3食食べさせてもらいましたし、身長が伸びて今までの服が着れなくなると必ず新しいものを用意してくれました。

今思えば私の子供時代の親世代は、若くてまさしく働き盛り、そして高度成長期のいい時代に丁度はまってたのです。ですから安定して働けたお蔭で、子供時代は何も不便を感じませんでした。

学校に行ってても「あの子の家は貧しい」って噂も一切ありませんでした。本当に私が子供の頃はのどか、平和で良い時代だったのです。

本当に懐かしい思い出、良い思い出が沢山詰まっている高度成長期です。

アナログ式生活真っただ中!日本には貧困と縁が遠のいていた?

昭和40年代から50年代は、日本人の日常生活はまさしくアナログ式そのものだったと言えます。今の様にデジタル化する前の時代ですので、懐かしく思います。

テレビが各家庭にあるのが当たり前になっても、やはり1台が精一杯でした。ですから家族全員が集まってテレビを見る習慣は毎日の様にありました。新聞のテレビ欄を見て、見たい番組が家族と同じであれば問題はないのですが、やはりアニメやドラマなど各自見たいものが同じ時間に重なると「チャンネル争い」と言った言葉が流行しました。

父親はプロ野球中継を見たいし、子供はアニメが見たい!そして母親はドラマが見たいなど本当に好きな番組がハッキリ分かれてくると、好きな番組の優先順位はどうなってくるのかが、当時では家族内で問題になったものです。

私の子供時代は、好きな番組を見るためにもう1台新しくテレビを買うことなど、親からして見れば凄く贅沢扱いされて、受け入れてはもらえませんでした。それに昔のテレビってまだまだ価格が高かったのです。

ですから同級生の家で、自分の部屋にテレビがある話を聞かされると羨ましく思ってたのです。

アナログテレビの昔のチャンネルは、リモコンなんてありませんでしたから、カチカチ回すものでした。非常に懐かしいです。それに夜中は放送などやってませんでしたから、テレビを付ければ、画面が出ずに、シャーシャー波音みたいなものしか出ていませんでした。

ラジオにしてもそうです。ラジオ付きカセット=通称:ラジカセですが、こちらは中学~高校の頃頻繁に使っていました。おこずかいでアナログレコードが買えなかったので、カセットテープを買ってはラジオから流れる好きな歌手の歌謡曲を録音して楽しんでいたのです。

同級生と情報交換して、ああいうの録音したとかこういうのを録音したとかで話題が多かったです。カセットテープの付属カードには手書きで歌手名や歌の題目で一杯かきつくされていました。

まさしくアナログ式にドップリした生活をしていました。(笑)私の子供時代は何もかもがアナログでした。電話だってダイヤル式の黒電話。あれは結局NTTから借りていたのだと母に教えてもらいました。

ですがあの電話の鳴るけたたましい音は、耳が痛くなるくらいでした。それに近所の電話の鳴る音もよく聞こえ、本当にダイヤル式黒電話ってリーンリーンの着信音がいかにうるさかったかってことが分かりました。

洗濯機でも殆どの家庭が二層式で、洗濯物を入れて、洗剤を入れ、洗う分数を決めてダイヤルを回すのが特徴でした。止まれば、いちいち洗濯物を脱水気に移してこれまたダイヤルを回す。現代の生活ではとても考えられません。

特に冬なんかは、すすぎの後の始末がとても大変でした。水が冷たくて、ちぎれそうになったくらいに痛い思いもしました。それだけじゃなく、すすぎをしてたことを忘れてしまうと、水道水を出しっぱなしにする、水道代の無駄をしていたことも覚えています。

テレビのチャンネル争い、ラジカセの娯楽、黒電話、二層式の洗濯機など、毎日当たり前の様になってたあの生活習慣は、もう戦後の貧困時代をすっかり忘れさせることとなりました。

ですから両親が「お前らは戦後生まれだから、物のない貧乏を全然知らないで育ってきて~!!」とよく言われたものです。

確かに両親の言ってた事は正解でした。その後の日本はますます発展していくばかりでしたから。

私が子供時代の大人たちとは?働くところには困らなかったものだ!

私が小学生時代、父の事業はとても順調に進んでいました。父は自営業をしていましたが、沢山の取引先からどんどん仕事の依頼が入り、父がそれをこなしていくことで、どんどん信頼されて行きました。

近所の幼馴染の父親たちもサラリーマンの人が多く、中には公務員の人もいました。私はまだ小学生ということもあり、当時の大人たちの雇用情勢はよく分かりませんが、安定して働けていたんじゃないかと思います。

サラリーマンや公務員の場合、夏や冬のボーナスも金額が下げられることなく、それなりに貰っていましたし、私の父でも自営業の割には仕事が途切れることはありませんでした。

ですから母は専業主婦でいられたのです。中には両親共働きの家庭もありましたが、現代程多くはありませんでした。

学校から帰れば、必ず母が自宅にいて、おやつ用意して「お帰り!」と出迎えたものでした。ですから両親が働いている同級生からはむしろ「お母さんが家にいていいね。」と羨ましがられました。

でも昔もちゃんと両親共働きの子供達を預かる施設はありました。プレハブの古い建物でしたが、そこでもちゃんと親の代わりに面倒を見てくれる人達がいて、おやつを用意していました。

おやつを食べたら、後は何をしていようが自由でしたから、施設で宿題をするってことはありませんでした。ですが色んな地域から子供が集まってくるので、狭い施設はたちまち狭くなってしまいました。

毎日、日曜日以外は小学生の賑やかな声がしていました。

さて、この高度成長期時代の雇用情勢はどうだったのでしょうか?私はまだ子供で、父や近所の大人たちの働く姿しか覚えてませんから、よく分かりません。

ですが世の中発展が凄かったので、この時代の日本人はやはり安定して働けたのです。それが「終身雇用制度」です。終身雇用とは、一度その企業に入社したら、定年まで働ける制度で、当時としては大切な決まりごとでした。

やはり一家を支える大黒柱が、終身雇用で定年までずっと同じ職場で働けることにより、収入は安定し、昇進すれば給料やボーナスアップなど夢ではありませんでした。

ですから私の子供時代は皆ちゃんと学校に通い、両親も安定した収入があって、本当に充実した時代だったと言えます。

私の父はサラリーマンじゃなくとも、地道に仕事をこなしていました。口コミで「あの人は信頼して仕事を任せられる」の理由で、沢山の仕事が舞い込んで、土日関係なく、父は忙しく仕事に明け暮れていました。

また母も私達姉妹を育てる傍ら、自営の妻として、年末調整は税理士を頼んだり、臨時に人を雇った時には経理をやったりするなど、いささか簿記の知識はありました。ですから父の仕事が余りにも忙しかったため、現代の様に外へ出て働くことが出来ずに、父の事務補助兼専業主婦としての人生を歩んでいました。

高度成長期時代の大人たちは、働くことに執念を燃やしていました。アニメのサザエさんの様に、夫は外で働いて、妻は常に家庭を守る風習が本当に強かった時代でもあります。

まとめますと、両親の若かったころが最大に景気が良く、仕事も沢山あって終身雇用のお蔭で一番安定して働けたと言えます。

高度経済成長期!海外では難民と呼ばれる貧困市民が多かった!

戦後復興を見事に成功させ、高度経済成長期に入った日本は、まさしく戦争時代では考えられないような時代を迎えました。

テレビ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機などは何処の家庭でもあって当たり前となり、主婦にとってはいちいち手でやらなくても電化製品がスイッチ1つで動いてくれるので、随分主婦業が楽になりました。

テレビも昭和40年代前半は白黒が多かったのに、50年代に入ると、カラーテレビが定着し、家族そろって娯楽番組を見られるようになるなど、本当に戦争時代があったのか?と思えるくらいになりました。

戦争で悲惨な目にあった日本ではありますが、そんな高度経済成長期に海外では難民と呼ばれる貧困市民が沢山いました。よく聞いたのが「ベトナム難民」です。これはベトナム戦争が元で多く出た犠牲者でもあるのです。

そもそもベトナム戦争はいつ始まったのでしょうか?調べてみると昭和30年11月に始まり、昭和50年4月に終わった戦争です。20年間も戦後日本に海外でもまだ戦争が起こっていたわけです。

正式名は「第二次インドシナ戦争」と呼ばれています。この戦争はアメリカの資本主義とソビエトの共産主義による対立戦争です。やはり戦争が起これば、必ずと言っていいほど一般市民に犠牲が出ます。戦争は結局は意見の合わない国同士の喧嘩には過ぎませんので、兵士としては、敵をたたきのめすまで戦うことしか頭にないので、全然市民のことなど考えてはいません。

この長い戦争で、亡くなった一般市民は約300万人、兵士でも約100万人と推定されています。日本人犠牲者より多いってことが分かります。

ベトナム戦争の終わり頃に、少しでも戦争から逃れようとして多くの市民が難民としてあちこちなだれこんでいきました。これがベトナム難民と言われます。

ですがこのベトナム戦争で、犠牲者の中で最も有名なのが双子の兄弟「べトちゃん・ドクちゃん」です。この兄弟は母親のお腹に居た時に、アメリカ兵のまいた枯葉剤が原因で、その水を母親が飲んでしまい、2人の体はくっついたままで産まれたという、なんとも悲惨なことで超有名です。

ベトナム戦争が引き起こしたこの悲しい双子の難民の子供は、日本でも大きく報道され、このままでは2人の命の保証が出来ないということで、日本に迎え入れて分離させる手術を行いました。

しかし分離手術こそは成功したものの、兄のドクちゃんは重い脳障害が残り、残念ながら亡くなってしまいました。

ですが弟のべトちゃんは、日本から義足と車いすを提供してもらい、一般女性と結婚しました。将来は障害があっても働ける会社を立ち上げる夢を持っていました。そしてべトちゃんはその後男女の双子の子供を持つお父さんになりました。

ベトナム戦争が原因で、体がくっついてしまったまま産まれたこの双子の兄弟は、結局重い障害者として生きて行く羽目になり、その上両親は離婚、兄のドクちゃんは亡くなってしまう悲しい結果を招いてしまいました。

分離手術をしたお蔭で、1人残されたべトちゃんは、現在は2児の父親として日々頑張っています。例え歩けなくても。

本当に戦争程恐ろしいものはありません。海外でもこういう事例があるのですから、難民問題もなかなか解決の糸口が見つからないのがよく分かります。

その間、日本はすっかり世の中平和になっていました。

元々日本人は外国と比べたら働き者!だから戦後の復興に成功出来た!

第二次世界大戦・太平洋戦争で約80万人の日本人が戦争の犠牲者となり、何処へ行っても戦争の傷跡を残したまま何もかも失ってしまいました。でも凄く戦後の復興には素晴らしく立ち直っており、この基礎のお蔭で今も平和を保ち続けています。

何故日本はこんなに戦後の復興に成功出来たのでしょうか?やはり戦後生まれの私としてみれば、両親から聞かされた「裸一貫」からのスタート精神があったからでしょうか。

あれほど激しい爆撃を受けながらも、日本は戦後約20年ほどで素晴らしい復興を成し遂げています。代表的に挙げられるのが、昭和30年代後半には国内で初めて高速道路や新幹線などを開通させ、交通の便がよくなりつつある元祖になりました。

そして昭和39年秋にはこれまた国内初の「東京オリンピック」が開催され、日本人選手の活躍がテレビで放送されて、人気度アップになりました。

昭和45年には「大阪万博」が開催し、戦後25年後の大きな節目として、日本はまさしく高度成長期に入っていきました。

戦後直後の日本は「戦後復興期」と呼ばれ、とにかく大人から子供まで只ひたすら生きて行くことに前向きになっていました。ですから大人たちは一刻も早くこの戦後の貧乏のどん底から這い上がるために頑張ってきました。それが両親の話してた「裸一貫」なのです。

確かに戦争で多くの犠牲者は出ましたが、当時の若者がどんどん結婚していったお蔭で、現在の団塊世代の人々が生まれました。そこから一気に子供の数は増えて、元々勉学熱心な日本人は、子供たちには十分な教育をさせようと必死になります。

それから戦争で焼け野原になった所々に新しく建物が建て始め、家を持てる家庭も増えて行きました。道の舗装工事なんかもありました。

日本人のいい所は、他の国と比べて働き者なところがいいのです。一生懸命働けば、いつか必ずそれが努力が実って、報われる時が来ると強く信じていました。

それがどうでしょう!やはり日本人は戦後から一生懸命働き、努力し続けたお蔭で高速道路や新幹線を開通させたり、オリンピックや万博まで開催するまでになったのです。

それに主婦の生活だって随分変わりました。ほうきで部屋をはいていたのが掃除機になり、桶に水を入れて洗濯板使ってゴシゴシ洗ってたのが、洗濯機になり、そして何より今までラジオが娯楽だったのに、テレビの登場で、家族で楽しめるようになるまで進歩したのです!

まさしく両親の「裸一貫」からのスタートの意味合いが今となってはよく理解出来ます。両親の若い頃はとにかくひたすら働いて、生活を豊かにしていこう!と常に努力していたのです。それはやはり戦争で子供時代、生きるか死ぬかの怖い思いをしたからこそでしょう。

しかし、日本人って全体的に凄い根性持ってますよね。自分も日本人ではありますが、とても両親やその復興時代を生きてきた当時の人達の真似は出来ません。

只言えることは、戦争の復興から生活が豊かになるまでに出来たのは、当時の日本人が全員力を合わせてやってきたから、ここまで成功出来たと私は思います。

ですから「日本人は働き者」風習が今でも受け継がれているんです。

戦後直後の日本!まさしく貧乏のどん底であり、誰もが苦しかった!

昭和20年8月15日、日本は戦争に負けて、どこもかしこも焼け野原になってしまいました。戦争で犠牲になって亡くなった人も大勢出て、この時日本人はもう二度と戦争はすべきじゃないと強く思いました。

戦争で何の罪もない人間が亡くなっていくのは何ともいたたまれません。例え話す言葉や肌や目の色が違っても、世界中同じ人間には変わりありません。どうして国と国が敵になって、醜い争いを起こし、何の関係もない人類を爆弾落として殺していくなんて…だから日本は第二次世界大戦・太平洋戦争の教訓を境に「憲法第九条」を導入させました。

これからはどんな状況になっても、日本人は戦争には参加しない、武器を手に取ることは絶対にしないなど、固い誓いをたてました。

特に原爆投下された広島、長崎は酷く焼け焦げ、原爆から出た大量の放射能を浴びた人々は、その後遺症で苦しめられる人生を送る羽目となりました。現在の90歳以上の高齢者の中には、もう70年以上もその後遺症で苦しんで生きてきたのです。

戦後当時はまだ子供だったり、若者だったわけですから、全て戦争で人生を狂わされたわけです。

戦後当時の日本の生活はまさしく貧乏のどん底で、住む家も食べ物も十分にありませんでした。ですから「闇市」があちらこちらで見られたのです。

やはり人間は食べることをしないと、たちまち栄養失調になって死んでしまいます。ですが闇市で売っている食べ物も意外と高く、なかなか手に入らなくて空腹を我慢していた子供達は多かったのです。

戦後直後の日本には、占領軍のアメリカ兵がいて、ジープに乗っては子供達にチョコレートを配る光景もありました。ですが当時の大人たちからしてみれば、戦争でさんざん爆弾落として日本人を沢山殺したのだから、アメリカは今だに敵視する人達も大勢いました。

例え貧乏であっても、家族には何か食べるものを与えないと全員飢え死にしてしまうという理由から、遠くの田舎に出向いて、野菜やいも、米などの買い出しに出る大人たちが大勢いました。

でもやはり食べるには家族全員足りません。ですから米などはご飯として炊くのではなく、雑炊にして食べることが多かったです。雑炊といっても、昔は水も綺麗だったわけでもなく、食器にしても衛生状態が悪かったので、それで体を悪くする子供達や大人が大勢出ました。

何処を出歩くにしても、全てが焼け野原で、家も灰になってしまったので、何処の家庭でも寝るのは野宿同然でもありました。やはりこの頃の日本人は「とにかく生きて行かねば!」の精神で必死だったことが分かります。

せめて焼け残った屋根の下で寝れば、雨風しのげるということで、その日暮らしをしていたのです。

闇市でも毎日のように長蛇の列で、市民1人1人がまずは食べるものを食べて生きながらえていくしか、今は方法がない!ことが浮き彫りになっています。

現に私の母も戦争で運よく犠牲を逃れた1人で、当時の酷い貧乏の暮らしぶりはハッキリと覚えています。そしてもう二度と戦争で何もかも失って、貧乏のどん底暮らしはしたくないと話しています。

母の子供時代こそが戦争が原因で、貧困生活を強いられていたのですから。